「デイケアーの3日」
                                                                                               
          


デイケアーの一日 その三

            デイケアーの一日 その三 

デイケアーの一日のその一とその二でそこでの生活の流れの概要を書いてから早くも
一年近く過ぎてしまった。あの頃はその三でまとめをもっと早く書くつもりだった。

今月満85歳になり、自分の最晩年の過ごし方について以前よりも自分に近いうちに
おこる問題としてそのことも考えなければいけないと思うようになった。それでその
ことも書きたいので、標題とは違った内容も含まれてしまうかもしれないが、先ず
デイケアーのあり方について感じたことを上げてみる。

デイケアーの生活については一日の流れの概要について感じたことなども昨年の文に
少しばかり書いた。4年間のデイケアーの経験から、色々なことを感じたが主なもの
二つを上げてみたい。

一番目に上げたいことは、施設の生活が安全で事故を起こさないように非常に慎重な
ことは有難くよいけれども、体を動かす行事が非常に少ないことだ。このような施設
の目的から考えて、施設の運用面で一層の努力工夫を願いたいということだ。

高齢者の医療費や介護費の急激な増加を抑制するためにも寝たきりになることをなく
するようなデイケアーの生活が必要なのだ。介護を受けている人のやる気がないと
なかなか難しい問題でもあるけれども、施設の毎日の行事を工夫すればいくらかでも
改善できると思う。

一例を上げると、毎日決まった時間にはラジオ体操の音楽を流すが実際に体操をやる
人は非常に少ない。施設側も治療をする所ではないためなのか、皆あまりやりたくな
いから強く勧めたり強制すれば退所してしまうことなども考えるのか、強く勧めるこ
とはない。

したがって一日の大部分は入浴を除けば、椅子か車椅子に腰掛けたままの生活で一日
過ごしている。ラジオ体操もやらないこれらの多くの人も皆で楽しむゲームなどでは
多少体を動かすものでも殆ど参加し、楽しそうにやっているのだ。だからこのように
楽しく体をなるべく動かすゲームや行事を毎日多く行う努力を施設に心がけてもらい
たいのだ。

ゲームなどさえもできないほど体が動かせないか、認知症の重い人は終日自宅で過ご
しているよりも、入浴と多くの皆さんと過ごすだけでも大いに効果があるが、その他
の多くは、体をなるべく動かし少しでも健康を回復させ、なるべく社会生活ができる
ようにデイケアーの生活を運営することが大切と思う。

私が感じることはデイケアーで過ごしている人のなかには、生活習慣からの病が原因
で体が不自由になったように思われる人がかなり多いのだ。そしてかなり重くなって
しまうと自分で努力して体を動かしたり運動を続ける意欲もなくなっている。自分の
努力と継続がなければ回復は難しいのだが、ラジオ体操さえできないこれら多くの人
のためにも楽しみのなかで体を動かすようなデイケアーの生活があれば強制しなくて
も体を動かすのでそうした運営をすることが施設の大事なことと思うのだ。
 
二番目に上げたいことは、施設の設備にも介護士にも視覚障害者への耐応が全くといっ
ていいほどないことだ。このような施設はあらゆる障害者が対象なのであるから運動
機能の障害のみに重点を置いた設備や介護士の教育や実習では、私たちのような視覚
障害者には、十分な介護はできない。

この原因としては、現在はこのような施設に視覚障害者が殆どいないということのようだ
。確かに経営者としては少ない視覚障害者のために多くの工事費をそれに当てることは
しないだろう。けれども工事費を変更しなくても施設建設のときの設計時に視覚障害者
のことも配慮すれば殆ど工事費の変更なしに視覚障害者にもやさしい設備はできるのだ。
そのようなところがいろいろな箇所にあることに気がつく。

また視覚障害者と同行するときの介助、食膳の食器の配置を説明するときなどの基本的な
ことさえ教育されておらず、これらもお金がかかるものではない。

以上のことは、私の4年間で2箇所だけの狭い経験なのだが、その間に一緒に介護を受けて 
いた人々が経験した他の多くの施設の話を聞いても大きな変わりはないようだ。ですから殆ど

の施設についてもあまりかけ離れたものではないと思っている。 

さて冒頭に書きましたように自分の最晩年の過ごし方をどうするかは、85歳にもなると差し
迫った問題として具体的に決めたい気持ちが強くなった。75歳までは一人で治療院の仕事を
していたが、その頃になると殆ど見えなくなり、仕事には差し支えなかったものの買い物や
生活が難しくなり、治療院を閉院し今の所で長男夫婦と一緒に暮らす生活にして現在に至っ
ている。

最晩年をどのように過ごすかは人夫々に異なる考えを持っている。しかし誰でもある期間は
誰かの世話にならなければならないのが殆どと思う。私も今の生活を始めたときには、ここで
まで子供の世話になるつもりで同居したのだが、今はそれでよいのだろうかと考えが変わって
きた。たしかに日本では子供のある人は子供に世話になって最晩年を送る人がまだまだ多い。

私も今の健康状態がずっと続くのであればこのままの生活がよいと思うが、85歳ではこの先は
永いことはない。今は比較的健康なので一年か二年くらいはまだ大丈夫だろうと自分では思っ
ている。しかしこれ以上に体が弱り、寝たきりの状態にいつかはなり、訪問介護をいっぱいに
利用したとしてもそれでも家族の精神的な面や介護の面でその負担はどれほど多くなることか
計り知れない。

それにこのことは、私が若しもあと数年も生き長らえると世話をしてくれている二人とも高齢
期に近づいてくる。いつまで介護が続くのか分からず、活動期の大事な年代を私の介護で疲れ
果てた日を過ごさせるのは二人のためにも避けたほうがいいと考えている。

私は視覚障害とアルツハイマーがあるので今でもいろいろな介護を家族からも受けている。
夫婦の間でもお互いに気遣いはしなければならないが、気兼ねもなく世話になれるだろう。
私のように妻がない場合はどんなに親切でよい世話であってもお互いに気兼ねや遠慮が大いに
ある。このことは介護している若い二人のほうが私よりも遥かに大きく苦労しているだろう。

自分が生きたいように幸せに最晩年を過ごすことができる良い施設にはいり専門の介護者が
居れば、熟練した介護も受けられるし家族の負担も解決されお互いに幸せな生活を送ることが
できるだろう。

ここで大事なことは自分に適した良い施設をどのように選ぶかということだ。これは調べれば
調べるほど難しい。いま図書館の本やその他でいろいろ調べているがこのことを書くと長くなっ
てしまうのでここでは述べないが大事なことだ。

最晩年を幸せに過ごすためには、行政や関連する事業所などの斡旋のみを頼り、おまかせにし
ては、良い施設をみつけることはできない。自分でも調べ見つけることは欠くことのできない
大事なことだと、今迄に読んだ本で強く強く感じている。

                    2013年8月 鳥海理一     
会員のページへ戻る